近畿・中国地方を中心に、縄文〜古墳時代の焼失竪穴住居に関するデータ・ベースを作成するとともに、北海道・新潟・群馬・京都・鳥取・福岡などの発掘中の重要遺構を実際に観察した。とくに、浅間山および二ツ岳噴火時の火砕流により埋没した群馬県渋川市の中筋遺跡(古墳時代)では、葺き土を茅ではさみこむサンドイッチ構法の屋根構造が明瞭に痕跡を残していて、大いに参考になった。また、子持村の田尻遺跡(古墳時代)では、竪穴住居のエッジ部分に垂木の差込み穴が明瞭にのこっていた。このような状況から、群馬県一帯では、周堤をたかくして垂木の勾配をゆるくする土饅頭タイプの竪穴住居が主流を占めていたことがあきらかになってきている。 一方、私自身が調査指導をしてきた鳥取県の南谷大山遺跡(弥生末〜古墳初)では、主柱4本より内側のみ燃焼しつくしているタイプで、桁から上を草葺、桁から下の地面までを土葺とする「二段伏屋」式である可能性が大きく、具体的な復原を試みた。 以上のように、これまでは家屋文鏡などのイメージによって画一的な草葺構造に復原されてきた竪穴住居は、じつはかなり多様な地域性をもつものであることが、焼失家屋の復原研究により、あきらかにされつつある。
|