現在のわが国の都市部における広域交通網は、中心部と郊外を結ぶ長距離輸送と中心部内部での移動を担う短距離輸送の複合体として理解できる。前者では私鉄など民間事業者の比率が高く、後者ではタクシーのほか、地下鉄やバスなど公的事業体の比率が高い。 この背景には、明治以来の戦前の歴史が色濃く反映している。維新政府は一気呵成に近代国家を形成するなかで絶対的な資金不足にあった。諸外国に比べて郊外私鉄の割合が高いのは、明治39年、鉄道国有法によって幹線が国有化されるまで、鉄道網の整備が民間の資本によって進められたことの名残りである。中心部においても、次々に開発される最新の交通技術の導入は、その実験的性格からいずれも私企業によって着手されたが、市場の成熟を待って公的機関が参入あるいは買収している。その過程では、企業と鉄道省(運輸省)と地方政府とが、政党を挺子として三つ巴の活発な交渉を繰り広げている。戦後の都市部における広域交通政策システムの原型は、最初に都市化の洗礼をうけた東京市におけるこれら3者間の交渉から生み出されたものである。 戦後の広域交通システムは、一般に都市交通審議会およびその後身である運輸政策審議会のほか、多額の投資に要する起債許可や補助近制度とととに、運輸省、建設省、自治省、大蔵省、など関係省庁による集権的な決定システムとして特徴づけられてきた。しかし、そのシステムは、戦前からの交通企業と監督官庁と地方政府の3者間の交渉の延長上に成立したものである。GHQの介入は地下鉄政策を例外として都市交通政策には殆ど及んでいないし、その介入も地方政府である東京都によって主導されている。また、中央政府レベルの審議会も、アリ-ナを拡大し地方政府に有利な決定を導くために地方政府のとりけ東京都が、積極的に働きかけた結果である。都市を中核とする広域交通システムの形成過程において、制度的制約のなかで地方政府は一貫して活発なアクターであったといえよう。
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