研究概要 |
本研究の当初の目的として前411年と前404年の寡頭派政変に関連する事項を調査・研究してきた。トゥキュディデス『歴史』と伝アリストテレス『アテナイ人の国制』の両史料の諸記述の矛盾点などを合理的に整合した。Arist., Ath. Pol., 30-31の2つの国制草案は,多くの矛盾を抱えていたのを解決して正当に位置づける試みを行なった。前411年の四百人の寡頭派政変が起こった原因を古典期アテナイ民主政社会の中と政変直前のペロポネソス戦争下でのいくつかの集団の動きや思想の中に追求した。特に政変の中心人物であったペイサンドロスの民主派から寡頭派への転身を考察すると,その政変はもっぱら寡頭主義的な考えから起こった政変とはいえない。アテナイの民主政が官職日当を支給する制度を備えていたところへペロポネソス戦争の戦局悪化とそれによる国家財政の破錠が襲い,金のかかる政治体制が危機に陥ったので,そこで富裕者や寡頭派や実務者たちが民衆に対して譲歩を追って官職日当の支給の廃止と政治権力の集中を生み出したと考えられる。本研究の鍵となる人物であるテラメネスの政治的立場を前411年の政変後の四百人処罰の動向を見据えて考察した。彼の政治姿勢は前4世紀後期のアリストテレスによって高く評価されたが,これは,前403年のアテナイの法制改革の結果,前4世紀のアテナイ人が,民主政は本来ソロンの父祖伝来の諸法に従って行なわれるべきであると考えるようになったことの反映である。テラメネス派に属するクレイトポンの前411年の提案の意味は,父祖伝来の諸法を遵守せよと唱えたものと解釈されるべきである。だが,彼の提案後,極端寡頭派によってこれが無視されて前411年の寡頭派政変に至ったわけである。
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