中国における漢字の歴史の中において、殷代と戦国時代とは、二つの大きな変革の時期であった。後者の変革は、秦の始皇帝による文字の統一によって決着をみたとするのが、従来の文字史の理解であった。しかし、実際の文字使用の状況から見ると、戦国末期から漢代初年の時期は、なお文字にしっかりした規範がなく、様々な異体字が存在する時期なのである。 従来の研究は、石碑の銘文などの文字を中心に考えて来たので、始皇帝の文字統一事業などが特に大きな意味を持ったように判断された。しかし本研究が対象とした、筆によって書かれた、必ずしも公的な文書ではない文字資料では、漢代初年に至っても、文字の構成の点で、大きな揺れが見られるのである。出土資料などから、文字の構成要素である、それぞれの偏旁の書き方にも相当な幅があったことが確かめられた。ただ、そうした文字構成の揺れが、必ずしも時間的に変化して、最終的に隷書(さらには楷書)へと繋がるというのではないように見える。一つの墓葬から出土した資料の中にも、同じ字が様々に書写されている例が少なからず見られた。地域性の問題、文書の内容と文字との関係の問題などが、今後の追求の課題である。 本研究では、謝金を用いて、長沙馬王堆前漢墓出土の帛書文書の字形索引を制作した。分量が多く、また占いなど雑多な文書が含まれているので、全ての帛書の一字索引を完成することはできなかったが、完成したものの一部である「老子甲乙篇文字索引」だけからでも、この変革の時代の最末期における文字使用の実態の興味深い面を窺うことができる(これは、一つには「老子」のテキストが現在に遺っており、甲篇、乙篇、および現行本との間で文字の異動が検討できるからである)。この「老子甲乙篇文字索引」は、現在はカードのままであるが、将来、印刷費を得て、冊子の形で出版したいものと考えている。
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