戦後、アメリカ軍による直接統治となった沖縄および奄美地方では、本土よりも一段と厳しい教科書体験(編集、使用)を余儀なくされた。また同じ占領下とはいいながら、沖縄と奄美とでは、その状況は異なっていた。 1.[宮古島]昭和21年度、宮古独自の教科書を編纂しようとして編纂方針、編纂委員まで決まりながら、直前になって沖縄本島から文教部編纂のガリ版印刷による教科書が送付されることになり、中止となった。が、昭和22年、宮古高等学校では、旧制中学校の教科書を参考にしながらガリ版による独自の国語教科書を作成した。 2[八重山](石垣島)昭和21年度、宮古島同様、八重山独自の教科書編纂を企画し、編纂方針、編纂委員まで決まっていたが、直前になって沖縄本島から文教部編纂の教科書が送付されることになり、中止となった。しかし文教部編纂のガリ版印刷による教科書が少部数であったため、昭和22年度は地元の印刷業者(金城善勤)に委託して増刷。国語教科書関係では、『ヨミカタ 一』『よみかた 三』を増刷して、これを使用した。両島の教科書編纂方針は、いずれも郷土性豊かな個性的なものであった。実現に至らなかったのが惜しまれる。 3[奄美地方]宮古島、八重山が共通してガリ版印刷の教科書を使用して体験を持つのに対して、奄美地方ではむしろ本土同様の墨ぬり教科書や暫定教科書使用の経験を持っている。教育情報を入手する手段がきわめて限られていた奄美地方では、昭和23年6月、現職教員二人(深佐源三・森田忠光)が貨物船の乗組員に扮して本土へ密航。教育基本法・学習指導要領など各種の教育法規や教科書を持ち帰った。こうして持ち帰った文部省編纂の教科書(第六期国定国語教科書「みんないい子」読本)を奄美地方で増刷して使用した。したがって奄美地方ではあくまでも「本土並」を希求し続け、奄美地方独自の教科書を編纂する計画はなかった。
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