本研究は、実学重視が支配的であった近代日本において、帝国大学文科大学が果たした社会的機能の分析を、その「教授集団」のプロソポグラフィー(履歴網分析法)により、試みた。具体的には、東京・京都両帝大文科大学の教授集団(大正8年(大学令)までの教授・助教授それぞれ80名、42名)の社会的属性、学問的背景・教育歴、キャリアパターンなどを、両者の差異を軸として分析した。その結果、明治20年代半ばまでの東京帝大の教授集団は、そのほとんどが士族出身の漢学・国学の大家によって構成されており(教授就任時の平均年齢は45歳前後)、またその教育的背景も個人によって大きな格差があった。その意味で、彼らのアカデミック・プロフェッションとしての分身的凝集性や職業倫理は脆弱であり、「文学」が内包する意味内容も多岐に分化していたといえる。したがって、本格的な教授集団の形成は、帝大での教育を経、欧米留学を終えた若い世代(平均35歳前後)が台頭する30年代以降のことであった。またそれは、平民層出身の教授が増加してくる過程でもあり、「文学」が士族層に限定された分野ではなくなっていったことを意味している。また、京都帝大の場合、7名ほどが帝大での正規の教育を受けておらず、この点で、そのほとんどを自大の卒業生で固めた東大とは、大きな相違があること、つまりこの事実は、京大が東大と対抗する異なる特色を打ち出すために、在野の人材を活発に登用して独特の学風を育んでいたこと、そしてその結果、「京都学派」形成の素地となっていたことを示唆している。ただ、教授集団キャリアパターンとしては、両帝大ともに、文部省官史や官立高等教育機関(高師・旧制高校)との移動が活発な一方で、私立セクターとの交流は希薄である。つまり、「文学」は、官立と私立とでは、その学問的性格が異なり、またそれぞれの内部で閉鎖的な構造をモデルっていたことなどが指摘しうるのである。
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