学校事故に対する社会的反応とそれに対する学校側の対応についての歴史的変容をみるために、明治20年から大正6年(市の損害賠償責任をめぐる訴訟や相次ぐ学校不祥事で教育ジャーナリズムが賑わった年)までの約30年間を対象として、無意図的な事故(遠足・修学旅行等)に関する記事を、教育雑誌、新聞等から収集し、分析を行なった。 本研究によって得られた知見は以下の通りである。 1.明治30年代後半から学校事故に関する記事が増え始めている。 2.大正初期までは、無意図的な学校事故に対する制裁は、不注意不行届という理由による行政処分(譴責、減俸、免職)のみが一般的であった。免職の場合、その校長や教師のこれまでの功績を考慮して、被害者側から役所に対して復任の請願をするケースも幾つか見られる。また、親は、子どもの死を、宿命や天災として諦めていた。 3.明治40年代からの新聞記事では、それまでの淡々とした事故の記述と異なり、被害者である生徒の可愛らしさ、その親の悲しみ、被害者側に対する学校側の“誠意"(謝罪、見舞金、迅速な対応など)に関する記述が多くなっている。そして、大正2年の東京市湯島小学校溺死事件を契機に、学校事故は、教師の無責任、愛情の欠如として問題化された。また、学校事故に対する制裁として、行政処分だけでは物足らない、という記事も見られるようになる。 4.これに対して、教育雑誌は、学校事故は仕方のないことであり、新聞の論調が興味本位で、教育界に対して同情的でないと批判した。しかし、大正6年以降、こうした教育雑誌の立場は表に出なくなった。 5.大正に入ると、階層によって尉叢の方法の違いが見られる。被害者が「中流階級」の場合、物品を送るよりも、校葬や記念塔などの形で尉叢の念を表した方がよいとされた。
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