本研究では、まず北海道会における庁立学校に関する予算審議の過程(1901〜1912年)を分析し、拓殖推進の見地から実業学校の設置を目指す道庁側と、普通教育機関(中学校・高等女学校)の設置を求める議会側との対立図式を明らかにした。討議過程においては、道庁の説く実業教育の推進が、具体的には工業、農業、商業といった特定の実業学校の設立として政策化され、しかも、各々の実業学校は道内各地に散在することとなり、北海道の広範さを考えたとき、生徒の進路希望に支障を来す、という議会側の指摘が通り、まずは中等普通教育機関が道内の各都市に設立されることとなった。 その一方道庁は明治30年代後半、各市町村に対し小学校付属の実業補習学校の設置を通達により奨励しており、これに呼応して市町村立の実業補習学校数が増大している。非庁立学校であれば、道会の審議を経る必要がないため、道庁は行政回路と通じて自らの方針の実現を意図していたと考えられる。この結果、道内の義務教育後教育制度は、普通教育については道会中心に整備が進められ、実業教育については行政主導で展開されるという、二重構造において把握できることが明らかとなった。 また、設立された庁立中学校のその後の展開の分析により、道内において中等学校に接続する高等教育機関が不在であったことから、中学校整備過程が必然的に札幌農学校の大学昇格運動を惹起したこと、その一方、中途退学者への対策として実業科目を中学校にの導入することが真剣に検討されたことなどを明らかにした。
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