朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、建国以来、中国(明・清)への「事大」関係を、王朝の対外関係を中心に据えていた国家である。朝鮮王朝が日本、中国以外の他国と関係を持つのは、19世紀以降に西洋列強が、本格的に東アジア世界秩序に参入を始めてからである。この西洋の参入、わけてもアヘン戦争・第二次アヘン戦争は、それまで中国を中心として構成されていた東アジアの秩序(朝貢体制)を動揺させ、日本においては中国蔑視観を育て、東南アジアのベトナム、シャム等の朝貢国においては清への朝貢廃止という事態を生んだ。が、朝鮮だけは逆に度重なる西洋の開国通商要求を回避するために清への依存度を高めた、と従来言われてきた。 これまで私はアヘン戦争、第二次アヘン戦争に対する朝鮮の反応を研究し、特に第二次アヘン戦争の時、北京が陥落して皇帝が熱河に避難する事態を目撃した朝鮮が、かなりの危機感を感じると同時に、その事大政策が動揺したことを指摘した。そこで、本研究では、その直後に成立した大院君政権の対清観、政策に焦点をあてるとともに、朝鮮の清に対する自己認識を解明することを試みた。 その結果、(1)清の保守派と朝鮮支配層は、密接な関係を持っており、清の保守派の見解とかなり連動すること、(2)保守派と対立し、洋務を推進しようとする恭親王に対しては、恭親王の対西洋外交の様子の観察を通じて、西洋への売国奴という認識を持ったこと、(3)そのため、大院君政権は保守派の教育係に育てられた同治帝に従来通りの鎖国政策を行う期待を寄せ、その親政を待ち望んでいると等が明らかになった。 また、大院君政権は二度の洋攘を勝利したという自信を得たことから、西洋を撃退出来ず、その言いなりになった清より朝鮮が上であり、清は朝鮮を尊敬しているという認識も育てていたことも明らかとなった。
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