11世紀ビザンツ帝国における異民族居住属州の統治形態を解明するために、今回、採用したのは以下の手法である.すなわち、現地における人心掌握と同化推進の最高責任者であった歴代の属州総督の社会的出自、経歴等をプロソポグラフィーを用いて解明することである.この作業を通じて、中央政府がいかなる思惑の下で当該人物をその任に就け、それがどのような政治的意味をもつのかが明らかにされるはずであった.アルメニア人居住地帯について検討を加えたところ、これについて、大略、以下のような結論が得られた. (1)11世紀前半、アルメニア系諸君候領がビザンツの属州に編入、転換された直後の総督職は、皇帝直属の軍事エリート家系の成員がそれを占める傾向が認められる.これは、新たに獲得した属州を、皇帝集権体制の下にしっかりと掌握することを意図したものと言える. (2)世紀中葉になると、旧ブルガリア王家の成員が、東方辺境属州の総督として、繰り返し姿を現わす.これは、彼らの行政手腕が買われたというより、彼らを母国から引き離し、ブルガリア人の民族的結集の核となるのを阻止するためにされた措置と考えられる. (4)世紀中葉から後半にかけて、アルメニア・グルジア系遺族が属州総督職の大半を占めるようになる.現地情勢に精通した彼らは、中央政府にとって重宝な存在だったが、反面、分離主義的傾向を示す場合もあった.そうした危険性を知りながらも政府が彼らへの依存を強めた背景には、コンスタンティノ-プル一極集中体制の下での、中央政府の属州に対する相対的な関心の低下、政権担当者の内向きの心理が作用したものと思われる.こうした状況のなかで、小アジアへのトルコ人の本格的な侵攻が開始されるや、ビザンツ帝国は有効な対抗手段もとれぬままに、またたく間にアナトリアの支配権を喪失することになるのである.
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