本研究では、ワイマル初期の反セム主義の高揚に際して、ドイツ・ユダヤ人は、どのように対応したのかに関して、重点を置いた分析を試みた。 反セム主義的な扇動・狼叢に対して、憲法で保証された権利を自衛するという対応は、既にそれ以前の第二帝制期における「ユダヤ教徒ドイツ国民中央協会」の成立(1893)で、本格的に開始されていた。ワイマル初期には、それとは異なった、別の対応が表面化してくる。それは、完全なドイツ社会・文化への「同化」こそが、反セム主義を消し去ることになるという観念に支えられ、反セム主義自体への論駁ではなく、逆に、ユダヤ人自身の手による、「同化」の妨げとなるユダヤ人内部の動向への攻撃であった。 尤もそれは、ワイマル初期に初めて現われたというわけではない。個別的な事例は、第二帝制末期にも見られる。キリスト教徒との結婚増加の傾向を、ユダヤ人のドイツ社会への「同化」進展の最も顕著な証拠と考えたドイツ・ユダヤ人で性科学者のM.マルク-ゼなどは、1912年の論述のなかで、「同化」進展の障害となっている、自分たちとは異質の東欧ユダヤ人の流入を抑制することを、ドイツの文化の問題として主張していた。 ワイマル初期に新しいのは、こういった傾向をもつ彼らの一部が、公然と組織を結成して、自己主張を展開し始めたことである。それが「ドイツ民族主義ユダヤ人連合」(1921-35)である。彼らは言う。「純ドイツ的な感情を持つユダヤ人がどれほど多くいるのかを人に対して明確化すること」こそが、ユダヤ人問題解決への唯一の道であると。よって彼らは、敗戦と革命を経た未曽有の混乱と危機感のなかで、反セム主義者が煽った「東欧ユダヤ人流入の危機」を受け取る形で、ユダヤ人移民の追放や、シオニストからの市民権剥脱を唱えた。ここには、混沌としたワイマルの分裂状況に代わる「ドイツ民族共同体」の希求という、当時のドイツ社会の無言の要請が投影されていた、と解釈し得る。
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