6世紀中頃のラヴェンナ総督府の設置は、ビザンツ帝国の軍事制度のイタリアへの導入を単に意味するのではなく、兵農一致体制へと向かうビザンツ軍制の方針により、イタリア社会に著しい変化をもたらしたと評価されてきた。具体的には、東ゴ-ト王国において維持されてきた古代ローマ以来の元老院文官層が、屯田兵用の軍事保有地として広大な所有地を没収されたために没落し、彼らに代わって東方から派遣されてきた駐屯軍が軍事貴族化して新たな支配層を形成したと主張されてきた。しかし、近年の研究により、この旧来の主張に批判がくわえられるようになってきている。本研究は、この新しい学説に着目し、その論拠についての検証をおこなった。まず、東方派遣軍の規模については、従来は現地に残っている要塞の数と収容能力から膨大な兵力の存在が想定されていたが、考古学的発掘の成果により、従来ビザンツ軍が築いたとみなされてきた要塞の多くがローマ時代の遺物であったことが判明し、ビザンツ軍が築いたものは比較的小さい要塞がほとんどであるという事から、派遣軍の規模は従来の説よりかなり少数であったと推定される。それにより、軍事保有地用の土地の規模も再検討されねばならないし、また強制没収という見方にも検討の余地が生じてきた。この問題のために、ラヴェンナ周辺の土地証書を利用して、土地の寄進・売買にかかわった人々の身分等の検討をおこなった。その結果確かに、兵士の割合は多かったものの非軍事職にある者や被征服民であるゴ-ト人が関与している例も以外に多く、国家による土地の没収及び兵士への再分配という旧来の図式は、極端すぎる事が明白になった。また、軍人は東方出身者よりも、むしろ現地出身者が多く、旧元老院層・ゴ-ト人など出自も様々であった。故に、東方軍事貴族により支配ではなく、軍隊を基盤としての支配層の再構成と評価する方が適切であるとの感触を得た。
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