平成6年度は、自動車メーカーと部品メーカーとの分業関係について、戦前から高度成長の前までを中心に資料収集と研究を行った。本年度1年間の研究の内容は以下のとおりである。 第1に、戦前についてである。1936年の自動車製造事業法以降、日本では自動車の国産化が展開したが、その中では部品の国産化が一つの重要な課題であった。この部品国産化の特徴は次のとおりである。(1)部品国産化に際しては、従来の自動車とは直接関係のない機械、金属製品、そして電機メーカーをさまざまに動員し、一応の国産化体制を整えた。この時に自動車部品メーカーに登録された企業の中には、これを一つのきっかけにして、戦後も自動車部品メーカーとして発展していくものが少なくなかった。(2)部品国産化政策の柱は二つあった。一つは、専門部品メーカーであり、もう一つは、加工メーカーの下請化であった。この時には、専門部品メーカーは自動車メーカー各社と取引関係を持つ共通利用メーカーとしての位置づけが強かったが、下請メーカーは特定の自動車メーカーと密接な関係を持つメーカーとして位置づけられていた。こうした部品メーカー育成の二つの方向はその後も戦時期にも引き継がれていく。 戦前の自動車産業の分業体制は、1941年の自動車生産のピークまで進んでいったが、その後戦時体制が強化されるに従い、自動車生産自身が崩壊し、分業体制も崩壊していくことになる。戦時期に自動車メーカーは下請企業を増やしていくが、自動車自身を生産しなくなっていたこと、下請企業自身も政策意図とは異なり有機的な分業関係を形成できなかったことなど、戦後に直接つながるものではなかった。 第2に、戦後復興期についてである。戦後は、戦前からの自動車部品メーカー(その多くは戦時中は航空機関連に動員されていた)に加え、戦時中には軍需関連部門に動員されていた機械メーカーや新たに戦後設立されたり再編された機械メーカーが期待できる部門として自動車部品工業に参入してきた。しかし、当初は自動車産業自身の規模も小さく、企業を維持していくためには自動車部品以外にも関係していた。こうした状況から脱皮していく契機になったのは朝鮮戦争であった。朝鮮戦争による特需が自動車産業と部品工業の再生と発展にとって果たした役割は大きかった。そして、もう一つ戦後中小企業行政の柱の一つとして実施された系列診断制度の果たした役割も大きかった。系列診断制度は、発注側と下請企業側の双方を診断し、両者の関係について改善していくための勧告を行うのであるが、そこで両者は分業関係のイメージを形成し、自動車メーカー側は「下請管理」を、下請メーカー側は合理化努力の必要性を学んでいくことになった。ここで学んだ内容は、その後量産化、近代化、専門化を課題とする高度成長期の分業体制の形成に活かされていくことになった。
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