(1)家仁親王が隠居屋敷として用いた宝暦4年から11年当時、今出川屋敷には6つの御茶屋が存在し、名称は赤黄・雲雪・偕楽・雲台・作遊・待人であった。このうち、赤黄は遅くとも宝暦3年に、偕楽は遅くとも宝暦5年には存在したと考えられ、宝暦8年には6つの御茶屋すべてが揃ったと考えられる。 (2)赤黄は、内部の仏間に代々の位牌を祀る御茶屋で、桂離宮園林堂に納められていた位牌は本来赤黄にあったものと考えられる。また、宝暦7年頃には桂離宮松琴亭の囲を写した「二葉亭」を増築した。二葉亭の作庭には、桂宮家の御出入絵師である土佐常覚(光芳)が関与した。 (3)今出川屋敷の御茶屋と、桂離宮など洛外の別荘の御茶屋を比較すると、水辺に御茶屋を建てること、高所に御茶屋を作り眺めを楽しむこと、田面の眺めを楽しむこと、御茶屋内に宗教的な施設を併存すること、などの共通点が見られる。 (4)家仁親王の桂離宮への御成は、宝暦9年以降その回数が減り、かつすべて泊まり掛けの御成となり、同時に、近い鷹峰御屋敷への御成が急増する。この時期は、今出川屋敷赤黄に松琴亭の囲の写しが造られ、屋敷内の6つの御茶屋が完成した時期と一致し、今出川屋敷の6つの御茶屋は桂離宮への御成が体力的に難しくなった家仁親王が、洛中にいながら桂と同様の趣向が楽しめるよう整備したものと考えられる。
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