近世初頭における都市形態を、主に都市周辺域の町地について考察した結果、以下の点が明らかにされた。(1)近世京都の土地は、地子赦免された赦免地と年貢徴収権が存続した年貢地から成る。(2)地子赦免された赦免地は、京都の中心域を構成している。その領域はいわゆる洛中と対応する。しかし、洛中のすべてが赦免地であるわけではない。(3)年貢徴収権が存続した年貢地は、京都の周辺域と外縁域を構成している。その領域は洛中の一部を含みながら、洛中に対応する。したがって、洛外のすべてが年貢地である。以上の3点について、土地所有の観点から京都の都市領域を大きく分けることができた。京都の土地が赦免地と年貢地に大別される契機は、16世紀末からはじまる洛中地子赦免と太閤検地にある。このとき、赦免地では、街路に面した街区の表層のみに町屋が立地する状態が想定されるとともに、街区の内奥では燐地との境界が区分されていなかった状況が想有される。他方、年貢地では、土地の面積に応じて年貢を徴収する必要から、土地は燐地との境界をあらかじめ伴った敷地として成立しなければならないのである。このように、近世初頭の赦免地は、いわゆる「鰻の寝床」という宅地へと細分化される以前の土地であった。他方、近世初頭の年貢地は、年貢高に比例して分割されねばならない土地として出発した。赦免地と年貢地の接点を都市周辺域と定義するとき、この領域には、地尻年貢地という町地が84町成立していた。この町地は、16世紀末から17世紀前半にかけて成立した。その形態は街路に面した部分が赦免地でその背後が年貢地である土地であった。道に面した部分が、町地の立地した土地と対応する。このように、近世京都の中心域においては、町屋の立地と赦免地の生成が連動しながら、都市域をその周辺部へ拡大させていた。
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