1.存在を主題とする西洋形而上学の歴史に絶えずついてまわる「無」の問題を検討する上で、まずカントの「無」の概念に関する叙述を解明する予定だったが、さらにそれに先立ってベルクソンの哲学を参照する必要性が出てきた。というのも彼は、西洋形而上学の根本的な誤りを「無」の概念のうちに読み取り、それを繰り返し批判しているからだ。しかも興味深いのは、ジル・ドゥルーズが慧眼をもって洞察しているように、この概念が一種の仮像性を帯びており、その限りにおいて人間知性にとって不可避だということをベルクソンが認めていたということ、そしてカントと同様の手法を用いてこれに対処しているということである。ベルクソンが「かくてわれわれは絶対無の観念を獲得するが、こうした無の観念を分析するならば、それが実際には全体の観念である…ということを知る」と語っていることからも、彼がカントと同一の問題圏のうちに立ちながら、これを批判していたのではないかという見通しを得ることができた。 2.次いで、ジョルダーノ・ブルーノの思想を検討した。彼の無限宇宙論の主張の背後には絶えず、空虚ないし無に対する拒絶があるからである。ここでもまたベルクソンの場合と同じように、カント的な問題意識が根底に存することが認められた。「ありうるもののすべてであるものは、自らの存在のうちにあらゆる存在を含む唯一のものです。他のものはみなそうでなく、可能態は現実態に等しくありません。なぜなら、現実態は絶対的なものではなく、制約されたものだからです」と彼が語るとき、念頭に置かれているのはスコラ的な空虚の概念である。 3.またスアレスの原因論においては、「自然物の生成」という非本来的な原因性が論じられる際、「欠如」の概念が、形相と質料と並列されたかたちで、「生成の出発点」としての意味を持たされていることを確認した。
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