研究課題/領域番号 |
07303009
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研究種目 |
基盤研究(A)
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配分区分 | 補助金 |
応募区分 | 総合 |
研究分野 |
経済史
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
石井 寛治 東京大学, 大学院・経済学研究科, 教授 (20012122)
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研究分担者 |
中村 尚史 埼玉大学, 経済学部, 助教授 (60262086)
山田 雄久 奈良産業大学, 経済学部, 講師 (10243148)
田島 佳也 神奈川大学, 短期大学部, 教授 (40201610)
岡田 光代 大阪府立大学, 経済学部, 助教授 (70213949)
中西 聡 北海道大学, 経済学部, 助教授 (20251457)
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研究期間 (年度) |
1995 – 1996
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研究課題ステータス |
完了 (1996年度)
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配分額 *注記 |
8,400千円 (直接経費: 8,400千円)
1996年度: 3,300千円 (直接経費: 3,300千円)
1995年度: 5,100千円 (直接経費: 5,100千円)
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キーワード | 商人 / 全国市場 / 域内市場 / 廻船問屋 / 米穀取引 / 鰯肥料 / 鰊肥料 / 株式投資 / 地域市場 / 北前船 / 化学肥料 / 米穀 |
研究概要 |
1.大阪府貝塚市にある旧廻船問屋=米穀肥料問屋廣海惣太郎家の文書調査を6回行い、基本帳簿類の写真撮影と書簡等一枚物の整理と目録作成を行った。目録カードの作成は今後も地元研究者を中心に続ける予定である。 2.撮影した資料の分析結果を調査会で順次報告し討論した。2年間の分析で明らかになった主要論点は、(1)1835年に米穀・肥料問屋として出発した廣海家は、最幕末期には貝塚最有力の問屋となるが、当時の貝塚は堺などとともに大阪市場を停滞させつつ発展していたこと、(2)幕末の廣海家は大型の和船を所有して北海道まで産物買い付けに赴く廻船問屋であったが1883年限りで海運業から撤退し、その頃から大阪と兵庫が汽船で出入りする集散地として再び活発化したこと、(3)取扱品の中心は1860年代には米穀から肥料に移るとともに、鰯肥料から鰊肥料へと転換するが、大豆粕はほとんど取り扱わないまま、1910年代から化学肥料の取り扱いを開始すること、(4)廣海家は問屋としての委託販売取引から手数料を得ながら、しだいに仲買としての自己勘定取引による譲渡利潤の獲得を目指すようになり、1890年代には委託販売量が急減して、大阪・兵庫や小樽その他の肥料商からの購入が中心となるが、損益面では手数料収入の方が多く、仲買的活動は必ずしも高利益を保証しなかったこと、(5)廣海家は1880年に株式投資を始め、当初は貝塚銀行を設立して頭取となるなど名望家的色彩の強い投資であったのが、第一次大戦期に非地元株を軸に収益目当ての株式投資が急増し、大戦後は配当所得が肥料商としての営業所得を圧倒して同家の所得の中心となること、などである。総じて、近世以来の地方商人資本の活動が、開港後は全国市場を一層深化させつつ、商業利潤の株式投資を通じて近代産業の発展を支えていくメカニズムが具体的に究明された。
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