この研究では、今日とくに環境問題の解決を試みるにあたって重要な論点となっている、「生活環境」認識のギャップ(当該地域住民と研究者・マスコミ・他地域住居社とのあいだでの)を主題化するために、近代日本における風土論の歴史社会学的な検討をおこなってきた。その結果、あらたに得られた知見はつぎの二点にまとめられる。 1.昭和初期という同時期に風土論を展開した和辻哲郎と三澤勝衛には、風土研究にたいする理論的前提において決定的な相違が存在していた。第一の相違は、風土概念に内包されている「われわれ」と「他者」との区分にかかわっている。三澤にとって「われわれ」とは、観察者が生活をおこなう地理的な範囲の住民に限定されているのにたいして、和辻にとっては「われわれ」は無限定に「日本人」とイコールとなされていた。第二に、どちらも環境認識に了解的方法をとってたにもかかわらず、和辻においては「自己の直観」を特権化されていたが、三澤は、(a)生活者の自己学習や工夫、(b)地域の慣習的な知識、(c)研究者による指導、の相互作用のかなで、「風土の観方」が培われていると考えていた。第三の相違は、和辻が風土を「人間の自己了解の仕方」として捉えたことによって人間中心主義的な環境認識にいたったのにたいして、三澤は、「風土の観方」という媒介類を導入することによって、自然環境を対象化して人間生活と自然の解離(ここに環境破壊が発生する)をテーマ化している。 2.以上の相違が、その後の歴史において、和辻に、国家主義的な言説を取らせることになったのに対して、三澤は満州移民政策にたいする冷静な批判者となることを可能にすることとなった。
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