3ヶ年の研究の結果、唐津藩の私塾教育について、以下の点が明らかになった。 第一点として、18世紀中期という早い時期に成立する唐津藩農村部の私塾教育は、吉武法命という人物の個人的資質に加えて、彼を助け求める農民が層として存在していたことを基盤として成立していた。そのことは塾の在り方にも反映し、固定的な施設と教師をもつ塾ではなく、教師が巡回したり学習者が持ち回りで場所を提供しながら学習するという形態の塾であった。これは、塾で教えられた学問の内容を求めることに加えて、塾で学ぶことそのものが村落上層にとって人的交流にとって重要な意味をもっていることを示すものである。 第二点は、村落上層の学習過程を明らかにして行く中で、「学談」という方法が特徴的に浮かび上がってきた。主たる史料として研究した峯平蔵の場合、同門の兄弟弟子たちとの頻繁な学談を行い、彼の自己形成の大きな部分を占めていた。これはおそらく他の村落上層にとっても同様であったろう。 第三点に、あくまで唐津藩南部地域においては私塾教育を中心としており、寺子屋の存在を示す史料などは数少ない。そのことは、私塾においても手習いなどを教えていたことの反映でもある。これらの事実から、「寺子屋=手習い」「私塾=学問」という理念型を再検討する必要がある。
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