研究概要 |
本研究は古代出羽の国制形成過程について,出羽国を構成する地域のなかの秋田に焦点をあわせて考察したものである。 出羽国は和銅5年に新置,山形県庄内に国府を設け,同地方に置かれた出羽柵の機能の充実・強化が図られた。この時期の秋田に関する資史料は文献・考古とも非常に少なく,たとえば養老4年の渡嶋津軽津司の設置場所としての可能性が高いということや,天平5年頃の出羽国府の秋田移転の前提となる状況について,十分に推測はできるものの,実証することは容易ではなかった。ところが,7世紀後半から8世紀前半の本州北部日本海沿岸地域における海上交通路の利用という観点から,『日本書紀』・『続日本紀』・『扶桑略記』等の文献史料を手掛かりに,日本列島全体のなかで秋田を位置づけてみると,秋田は律令国家の北方政策および対東北アジア外交政策上,重要な拠点となっていたことが明らかになった。また,秋田市金足の大清水台II遺跡の発掘調査の結果,刀子と砥石が出土したが,これらの年代は8世紀第1四半期までさかのぼるものとみられること,当時,刀子の使用者としては官人があげられることから,この段階で秋田に中央政府の官人が駐在していたものと考えられる。 以上のことから,8世紀第1四半期の秋田には天平5年頃に出羽国府が移転するに足る条件が整っていた可能性が大きかったことが明らかになった。
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