先ず、報告者が既に制作している中国の明末農民戦争史研究に紹介された地方史実に関するデータベースを、高速で大量処理できるものに改良した。他方、士大夫の反乱見聞記及びその記述を含む関係諸史料(とくに中国の研究に既に紹介され又報告者が1992年に中国で調査したもの以外)について、東京の東洋文庫・内閣文庫等でその存在を調査した。ここで見出した60余点の史料を新たに組み入れて『明末の李自成・張献忠の乱下の地方史実に関するデータベース』(仮称)を試作した。即ち、李自成ら「流賊」が在地の者と関わりをもった地点(州県等)、その西暦年、当該の史実を記載する史料名、「流賊」と関係をもった人又は集団名、その出身階層、士大夫が大順政権よりうけた官職、呼応後の離反の有無、清朝の最初の関わりに対する対応のあり方等々の項目から検索できる7000余行のデータベースを完成した。本データベースの士大夫と「流賊」の関係に関する950余のデータより、大順政権の基盤について以下の新たな知見を得た。大順政権の地方政権が樹立され且つ当該政権の官吏が多数配置された湖北や河南については、その実、それ以前から「流賊」が士大夫を吸収しようとする活動が他省に比して多く認められる。この地方で大順政権と結びついた士大夫の多くは、清軍侵攻の時期まで長くその関係を維持した。一方、士大夫の離反のケースは、大順政権の北京政府が樹立される前後の河北・山東に多く見出されるが、その内、離反した士大夫を中心とする在地勢力が即座に清朝の統治を受け入れる事例は、管見の限りでは半数に満たない。「大順政権の短命の原因が官僚地主階級と清朝権力の結合にある」とする中国の学会の見解は、〈大順政権から離反した士大夫らの清軍に対する抵抗→清朝支配の受け入れ〉という地域社会の展開過程をより明確に念頭に置いた上で、今後具体的実証的に検討されねばならないと考える。
|