中国において隋朝に始まり清朝まで続いた官吏登用試験の科挙は、時代によって差はあるが、詩や文章などの文学作品をその試験科目としており、文学との関わりは深い。科挙制度によって生み出される科挙官僚こそが、宋代以降、文化の中心的担い手として活躍し、文学を生み出す母体となった。ここには制度と文学との相互関係が見られる。本研究は、これまでのこの分野における研究成果を踏まえ、清朝における科挙制度と文学との関係について解明することを目的とする。 平成7年度は、書誌学的アプローチとして、これまでに充分に調査の行われてこなかった清朝における試帖詩の総集や科挙の受験参考書について、清朝の図書を豊富に所蔵する図書館を訪ね、科挙関係書籍について調査を行った。平成8年度は、それら資料の分析研究を行い、科挙における試帖詩の復活とその清朝の文化に対する影響について分析を行い、その研究成果を論文として公表した。本研究によって、以下の点があきらかになった。 科挙に詩が課されるようになったのは、唐朝の玄宗の開元年間(713-741)からであり、北宋後期に一時科挙の試験科目からはずされたが、南宋末まで、一貫して用いられた。この試帖詩は、元朝、明朝では用いられず、清朝になって乾隆22年(1757)に480年ぶりに再び科挙の試験科目となった。その理由は、高級官僚に文学的才能を要求する清朝の方針である。試帖詩が、清朝になって復活すると、社会的な波紋を呼び、すぐに受験対策としての参考書が数多く出版された。北京で出版された琉球人の試帖詩を集めた『琉球詩課』もそうした書物の一つであり、科挙制度の東アジアへの影響を表すものである。
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