本研究では、とりわけ年度後半において、ハイデガ-哲学における最重要問題の一つである「技術への問い」を集中的に扱い、そこからマルクスの資本主義理解との接点を見出すことによって、「日常性と時間」という課題をいっそう掘り下げるべく努めた。 ハイデガ-後期の代表的論文「技術への問い」では、「技術とは何か」という問題が、古代ギリシアにおける「テクネ-(わざ)」および「ポイエ-シス(うみだすこと・生産)」の概念に遡って解明される。「テクネ-」とは、根源的には、「アレーテウエイン(あらわにすること・真理)」の在り方の一つと考えられていた。この点を踏まえて、高度に発展を遂げた現代技術、いわゆる「テクノロジー」とは何か、を考えてみると、それを支配している「あらわにすること」とは、かつてのような「うみだすこと」ではなく、「けしかけること・挑発」である、ということが分かる。また、そのような挑発によって自然から駆り出されてくる物資は、たんなる「対象」ではなく、「用立てること」のために調達・備蓄される「用象」となる。さらに、そうした用象を挑発するのは「何者」か、と言えば、もはやそれは人間ではありえず、人類と大地を駆り立て巻き込み組み入れて肥大化していく非人称的な何らかの力、であり、テクノロジーの「本体」たるこうした猛威のことを、ハイデガ-はとくに「ゲシュテル(駆り立て、集立)」と名付けている。 以上の説明を、資本主義的生産様式に関するマルクスの基本概念と照らし合わせてみると、「挑発」は「搾取」に、「用象」は「商品」に、「集立」は「資本」そのものに、それぞれ対応していることが判然となる。マルクスが「テクノロジー」を、「時間のエコノミー」の核心をなす言わば「時間のテクノロジー」として論じているのは、何ら偶然ではない。ハイデガ-の技術論は、マルクスの資本論と連関させてこそ、真にその射程を実測しうるのである。
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