本研究の目的は、西田幾多郎およびマルティン・ハイデガ-の思想を、「芸術論」の観点から捉え、双方の「芸術論」の特質を、「世界把捉の象徴として芸術を捉える」、「現代の思想」として規定することにあった。研究代表者は、研究を計画した当初、この規定に基づいて、同一の志向性を有する両者の思想を相互補足的関係の下において見るならば、これらが現代の芸術を正当に解釈する思想として新たに捉えなおされる端緒が開かれるだろう、という予測を立てていた。こうした目的を有する本研究を遂行する上での今年度の実績のひとつとして、これまでの研究代表者の西田哲学研究の成果である、西田哲学をひとつの「芸術論」として見る可能性を問うた小論の独訳を「国際版美学」誌(近日刊行)に投稿したことが挙げられる。 しかしながら、西田とハイデガ-の思想を比較するとき、その前提となるべき両者の共通性は、計画当初予想していたほど容易に前提できるものではないことが徐々に明らかとなってきた。たとえば「思想」1995年11月号掲載のE.ヴァインマイヤー氏の論文「西田とハイデッガ--比較哲学の試み-」にも論じられているように、両者が目指す方向性の一致は、なるほどある程度認められるにしても、ロゴスを重視して「哲学から経験へ」と向かうハイデガ-の思想に対して、非哲学的な経験を哲学的に捉えようとして「経験から哲学へ」と向かう西田との間には、乗り越えがたい相違があると言わねばならない。また「存在論的差異」をはじめとし、現象学的に「差異」を問題にする前者に対して、対立する諸項を「矛盾的自己同一」的に一挙に媒介しようとする後者の「同一性」の観念論は、やはり相容れない関係にあると言うべきであろう。こうした相違を相補的関係において単純に総合することは、困難というよりも、むしろ不可能というべきだろう。 上述したような本研究の目的を目指すとき、こうした両者の特質の対立関係をどのように捉えるかということがさしあたって問題となる。しかし、限られた時間と研究代表者の力量不足により、この問題は遺憾ながら今年度中に結論を見るには至らなかった。したがって、本研究代表者に課せられた今後の課題は、西田とハイデガ-の思想の対立的要素を調停しうる理論を展開することにより、本研究の方向を継承するか、あるいは問題設定を立て直してその方向を転じるか、いずれかの道を選択するということになろう。いずれにせよ、本来の意味での研究の実績は今後の研究に委ねられているといわざるをえない。
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