本研究の目的は、ポリスの変質過程を後付けることにあるが、その際に植民活動をポリスの維持再生産の営みと意義付けて、その視点からアプローチすることに新しさがある。そこでまず、古典期におけるアテ-ナイ植民者のリストを作り、一人ひとりについて出来うる限りのプロソプグラフィーを作った。その中で今回特に注目したのは、前4世紀中頃にサモス島へ移住した植民者の子供であるエピク-ロスであった。ディオゲネスによると、エピク-ロスは18歳の時にアテ-ナイに戻ったらしい。このことは明らかにその時彼が区に登録され、その後エフェーボスになったことを意味している。つまり、当時植民者の子供は、アテ-ナイ市民団に登録されるために、わざわざ母市に戻り、そこで合法的な結婚によって生まれた自由人であるかどうかについて、直接的な面識や証言による審査を受けなければならなかったのである。この点はローマにおける市民登録と異なる。当時の母市と植民市の関係は、植民市が母市の一部といえる程緊密化していた。つまり、ポリス社会の根幹といえる相識性は、逆に希薄になりつつあったのである。一方依然としてポリス的価値観を持った市民は、相識性を植民者にまでも要求したのである。しかし実際には、ディネゲネスが証言しているように、エピク-ロスは、制度的にはアテ-ナイ市民団に登録されたものの、他の市民たちからは偽市民との噂をたてられたのであった。つまり、ここにポリスの拡大とポリス的価値観の残存という、理想と現実のずれが認められるのである。このずれを止揚できなかったことが、ギリシアのポリスはポリスで終わったことの大きな原因があるのではないかと推論する。この研究の途中経過は、1995年度広島史学研究会大会のシンポジウムで報告した。また最終的な成果は、『史学研究』212号に論説として収録される予定である。
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