古墳時代に北部九州で生産された「朝倉系」初期須恵器と、畿内で生産された「陶邑系」初期須恵器との形態的な差異の検討を行い、形態、施文方法の違いなどによって、両者を判別できることがわかった。しかし、畿内の最古段階とされる資料については、北部九州と類似度の高いものも見られる。両地域における導入期の製品は、朝鮮半島の陶質土器に近い形態を呈するといえる。つぎに朝倉系須恵器の編年を行った。大きく2つの型式に分けることができ、「陶邑系」須恵器との共伴関係から陶邑TK73・TK216型式と「朝倉系」の古い1群、陶邑TK208・TK23型式と「朝倉系」の新しい1群とが共伴する。 初期須恵器の出土状況を検討したところ、北部九州では、ランクが高い墳墓には埋葬施設内に副葬されるものが少ないことや、「陶邑系」の初期須恵器は副葬例が少ないことなどから、使用方法については畿内の方式に倣ったものと考えた。これらのことから畿内に導入された時期が北部九州に導入された時期よりも早いと考えた。 北部九州の首長は畿内に導入された須恵器に価値を認め、取り入れようとした。しかし、陶邑産の須恵器はそれほど多くなく、足りない器種を補うために、朝鮮半島から工人を招来することによって、北部九州に初期須恵器窯が成立したと考えた。朝鮮半島との直接的な関係が想定できる点で、東北地方や東海地方の初期須恵器窯の状況と異なっている。形態が「陶邑系」と異なるのもそのためだと考えられる。はじめは形態が異なっていても所期の目的は達成されたと思われるが、陶邑での生産が拡大し、「陶邑系」の製品が広く行き渡るようになると、形態の異なる「朝倉系」初期須恵器は価値を失い、自発的な形で北部九州においても「陶邑系」須恵器が生産されるようになったのではなかろうか。
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