本研究は、戦前日本の教育学の理論を担ったとされる「講壇教育学」が「教科をどのようなものとして理論化していたのか」について追求する一環として、入澤宗嘉の場合について検討しようとするものである。 この研究を進めるに当たって、(1)全集・選集として纏められていない、散逸しつつある入澤の著作の収集・整理、そうした基礎作業を元にして、(2)入澤の教科論形成の個人史の解明を行う、という手続きを挙げた。その際、一つの視点として(3)(この研究には入る前に個人的に進めていた)篠原助市の場合との比較検討を行うとしていた。 これらに基づいて研究を進めた結果、現状での成果・到達点は以下の通りである。 先に「彼の40冊近くにのぼる著作は(戦災の影響もあって)かなり散逸しており、それを改めて収集・整理すること自身が早急に求められている。」と記したが、実態はまさしくその通りであった。実際、今年度の研究は大部分、上記の(1)の作業に費やされることになり、現段階でもまだその途上である。現在、著作の22冊については古書による実物を、2冊につては複写機による複写物として、収集を終えている。今後、引き続き、この作業を進めて行くが、時間の纏まって取れる年度末に、再度書誌探索、古書購入、複写のために科研費分の出張を設けて収集作業を行う予定である。 収集済の著作についての検討によると、入澤にあっては、篠原助市の考えていた"総合→分化→総合"という過程を辿る教科論とは対照的な教科観を有するようになっていたと考えられる。(収集済の資料数の制限があり、断言は避けねばならないが)彼の場合、必ずしも教科論と言う研究分野を自覚していなかったようであるため、彼の教科観をより具体的に記述するには、田島小学校の実際のカリキュラムを検討の爼上に置く必要もあるようである。
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