本格的な明治風景文学の嚆矢とも言える志賀重昴『日本風景論』(明治27年)について、当初、イギリスロマン派における'Sublime'から'Picturesque'への転倒がそのまま反映されているのではないかとのおおよその予測を持っていたが、今回の調査より、志賀的風景論とは、あらかじめ超越的崇高美を想定できなくなった地点より出発する'Picturesque'的風景観の変奏そのものではなかったかとの計測を立て直しつつある。 実証的には、当初、'Beautiful''Sublime''Picturesque'の対応語として想定していた「美」「瀟酒」「趺宕」は、むしろ'Picturesque'の振幅を示すものであるといえ、なかでも志賀が火山論との関係で強調する「趺宕」こそが'Picturesque'の核心部-'Sublime'寄りの'Beautiful'に相当すると考えられる。受容論の側面からは、'Picturesque'的審美感の日本への直接の紹介者ともいえるラスキン自身が、イギリス19世紀も終焉を迎えつつあった「世紀末」の美学者であり、そのコンテクストには、ヨーロッパ的風景美のシンボルとも癒えるアルプスを頂く「大陸」的伝統に大して、それとの切断をきわめて意識化した「イギリス的」なるものが措定されており、その意味では日本が受容した風景論自体が、外部との緊張関係を失ってきわめて内部化・内面化したものであったと言える。さらにヨーロッパとの切断を前提として本源的なる自己を探求したエマソンが明治の知識人に広範に受け入れられていたことを考え合わせるならば、「起源」としてのヨーロッパ近代を隠蔽しつつ自らのナショナリティーの根拠としての「風土(愛)」を構成してゆく地点に、まさに明治風景文学の起源が見出せるのかもしれない。各論としては藤村『桜の実の熟する時』に、イギリス流実利的立身出世、平田派国学などの錯綜したコードの中から、内面の自然への投影に自己の根拠を見出してゆくプロセスを探った。
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