イタリア語圏で16世紀に成立した騎士叙事詩『ボヴォの物語』を取り上げ、そのテキストの分析にあたった。 具体的にはテキストから数カ所を選択し、その言語学的特徴を、同時代のドイツ語圏で成立したユダヤ・ドイツ語文献と比較する一方、現代イディッシュ語の資料とも突き合わせ、相違点や共通点を確認した。その結果、『ボヴォの物語』の言語には、イタリア語からの影響が顕著に認められるものの、しかしながら本質的には、中央ヨーロッパで成立しつつあったユダヤ・ドイツ標準語の規範との一致が多くの点で認められることが判明した。またこの「標準語」は、現代イディッシュ標準語の直接の原型となるものではないが、しかしながら後者に大きな影響を与えていることが、語形などの面で明らかとなった。 ただし『ボヴォの物語』の言語と内容は、同時代のユダヤ・ドイツ語文献と比べて、その「ユダヤ性」がきわめて顕著である。その要因の解明をまた本研究では試みた。そのため、新規に購入した文献や、さらに大阪大学人間科学部「ユダヤ文庫」所有文献などを検討した。その結果、イタリア・ルネッサンスにおけるユダヤ系知識人の役割や、さらにドイツに見られないほど密接であったユダヤ人とキリスト教徒の交流、また異教徒(キリスト教徒)の文化・慣習に対する態度がドイツのユダヤ人共同体における場合とは異なりきわめて寛容であったことなどにより、イタリアでは、ドイツ系ユダヤ人の言語文化は独自の発展を遂げることが可能であったとの結論を得た。
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