研究概要 |
(1) 全国各地の図書館において関連文献の調査・収集につとめたが、殊に大谷大学図書館、国立天文台図書館、横浜市立大学図書館などにおいて関係資料を採訪した結果、内通、円煕、介石以後の論者たちの文献を調査・収集することができた。 (2) 幕末の神道家賀茂規清が有名な天文学者間重富から聞いた話では、円通は老齢になっても須弥山説の講釈を行っていたという。事実彼が1817年三重県津市一身田専修寺で行った講釈の記録ノートが現存している。そこでは孔子君子の暦法が仏暦と同じだと述べているが、こうした表現は一般大衆の共感を喚ぶにきわめて有効な言い回しであったろう。 (3) こうした講義記録は、円通の弟子達、たとえば2大弟子である信暁(1837,1855)、環中(1854,2点)、また円煕のそれが残っている。しかし、どういうわけか、円通の場合も含めて、『立世阿毘曇論日月行品』に対する講義が多くを占めているのは注目してよい。 (4) 幕末から明治初年の護法運動は、中国伝道プロテスタント宣教師たちの書物による地球概念と地動説の普及を警戒し、須弥山宇宙論の観点から批判した。佐田介石らの運動も、この一連のコンテクストの中で考える必要があることを明らかにした。 (5) 介石らの努力にもかかわらず、須弥山説運動が明治中期に衰退するのは、明治の学校制度の整備による科学知識の普及の結果、これが仏教関係者の間だけの論争に終わったことによることを指摘した。
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