中国近代知識人の総体的なイメージを構築することを目指した本研究は、2年間にわたる検討の結果、以下のような成果を得ることができた。 中国知識人の内部は、(1)反共主義的で親米的な政治路線を標榜し、集団主義的な思想傾向をもった穏健派、(2)可能な限り平和的な手段での変革を志向し容共的で、米ソ両国とも等距離外交を目指した、個人主義的傾向の強い中間派、(3)親共的で暴力革命への傾斜を強めた変革思考の持ち主で、対外的には親ソ的傾向を示し、思想的には集団主義的な発言をおこなった急進派の三つのグループに区分できることを確認した。 具体的にいえば南京国民政府期(1928〜37年)に関しては、羅隆基の言論活動を取り上げ、彼が個人主義に基づくリベラルな言論活動を展開したことを急進的な救国会派との比較のなかで論じるとともに、それが国民党の「以党治国」論にもとづく上からの「国民国家」創出の動きと鋭く対立したことを明らかにした。 日中全面戦争期(1937〜45年)に関しては、中間派の章乃器を通じて考察した。実際の戦時動員に従事した彼は、中間団体を排除し国家と個人とを直接的に結びつけて、集権的な権力を樹立しようとした。とはいえ章乃器にとっては、戦時下における集権的な国家権力は、中国の民主的改革・国民統合を進めるものと期待されたことも論証した。 内戦期(1945〜49年)に関しては、中間派の代表的な人物の一人である施復亮と、彼を批判した急進派の馬叙倫・李平心らの言論活動をフォローし、あらゆる権力に対する批判精神の必要性を説くリベラリズムが、都市の急進主義の高まりのなかでひとまずは伏流せざるをえなかったことを明らかにした。
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