メキシコ南部からホンジュラス西部にわたる中央アメリカ一帯に栄えた古代マヤ文明。このマヤ地域南東部の古典期(紀元250〜900年)の都市国家コパンは、いつ、どのようにして、周縁地域を政治的に制圧し、この地域に古典期マヤ文明が成立したのか。本研究は、この問題をC14分析等の理化学的方法、土器や建造物の比較研究を通して解明しようとした。この問題を解明するために、具体的には1次センター、コパンにおける紀元6世紀の建造物チョルチャと周縁地域ラ・エントラ-ダに存在する2次センター、エル・プエンテの建造物サブ1の比較研究を行った。どちらも当時の支配者と密接に結びついた建造物である。コパンのチョルチャは、その中に見つかった豪華な墓に埋葬されていた人物が、コパン王朝11代目の王「ブ・チャン」であるとされ、この同定が正しければ、紀元6世紀に使用され、7世紀のはじめ(紀元628年)に放棄されたことになる。一方、エル・プエンテ遺跡の建造物サブ1の建築年代は、C14分析では、紀元570±50年という値を示し、これは共伴土器や建築技法、建築様式の上でも支持されている。さらに、両者の間には、建築技法、建築様式、土器、埋葬法、埋葬に伴う葬送儀礼等に密接な関連が確認された。この事実から、エル・プエンテ遺跡の建造物サブ1は、紀元6世紀にコパンあるいはすでにコパンに従属していたラ・エントラ-ダ地域における中心センター、ロス・イゴスが、周縁地域の政治的制圧を目的として建設したものであるという仮説が提示されたのである。
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