旧ユ-ゴスラヴィア紛争は社会主義体制の崩壊から内戦の惹起というユ-ゴスラヴィアの内在的要因と、それへの国際社会の関与による紛争の国際化という双方から捉えられなければならない。本研究はこのうち後者の外在的要因について、国際社会(主として欧米諸国、EU、国連)のボスニア独立承認、調停努力ト分割案の提示、平和保護軍の派遣、国際刑事法廷の設置、和平会議における当事者間の交渉の斡旋、そして95年11月のオハイオ州デイトンでの和平合意に至る過程で、紛争の展開、拡大、終息に果たした国際社会の役割を検証しようとしたものである。 当初、欧米諸国はユ-ゴスラヴィアの解体の解釈として、民族自決権を盾に分離独立を指向するクロアチア、スロヴェニア、ボスニアを民主主義的勢力とし、それに反対しユ-ゴスラヴィアの一体性を主張するセルビアを権威主義的体制と規定した。これ以後92年5月のセルビアを含む新ユ-ゴスラヴィア制裁決議、セルビア人による民族浄化の実行、セルビア人戦争犯罪人の摘発といったセルビア敵視政策によって紛争の解決を図った。 しかし、紛争は膠着し、提示される分割案がセルビア人勢力受け入れられず、解決のめどが立たなくなると欧米社会は、紛争当事者すべてが民族浄化、戦争犯罪に関わっているとし、セルビア敵視を放棄した。冷戦後の西側欧米諸国の管理能力、国連の信頼性の確保が優先されるなかで、欧米諸国は敵視し、犯罪者とみなしたセルビアに交渉のテーブルに着くように呼びかけ、さらには和平の鍵を握るのはセルビアであるとまで認識を変化させたのである。結局、デイトン合意ではボスニアの一体性と二つの政治的実体の併存、49:51という分割案に落ち着いたが、ボスニア問題の解決には程遠い、大国の面子をかけたボスニア紛争の処理でしかなかったのではないだろうか。
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