本研究の課題は、ソクラテスの反駁的対話の分析を基に、その「存在と知との関わり」を探求することにある。ソクラテスの「存在と知との関わり」は、初期対話篇の「何であるか」の問いから中期以降のイデア論への展開のうちで、次のように位置付けられてきた。初期対話篇のソクラテスは「何であるか」と対話相手を問い質し、その言説を論駁し、生を吟味する。対話はみなアポリアに陥り、不知の表白をもって閉じられる。中期対話篇はこのアポリアに陥った対話を受け継ぎ、「何であるか」の問いに応えるものとして、イデアを措定する。ソクラテスの知を二次的な知と貶め、知が知である所以を知自体のうちに求めることになる。ここにソクラテスの「存在と知との関わり」の限界を主張し、ソクラテスの倫理からプラトンの形而上学への転換を語る論者は多く、支配的見解であるといってもよい。本研究は、このような通説的見解に対して挑戦を試み、以下のような知見を得た。1.初期対話篇群を普遍対個別という図式によって読み解くことは、上述の通説的発展図式を前提とした不当な解釈である。2.ソクラテスの反駁的対話は「思いなし」のうちに私秘的に閉じられる生をその内側から開いたが、それを『国家』篇のポリス共同体と魂との比喩に重ね合わせるとき、類比的にポリス共同体も外へと開かれた存在として基礎づけられることになる。3.ソクラテスの反駁的対話とはたんに思弁的な、事柄の理解を目指すものではなく、互いの生を吟味し「言論によってできるだけすぐれた人間となる」ように努める営みであり、「術の類比」はこのような営みの内実を明らかにするために用いられている。しかも、この「術の類比」と呼ばれる論法は『国家』篇においてもプラトンの基本的な手法であるが、従来の『国家』篇研究では不当に低く評価されている。これらの知見の一部を「ソクラテスの知」として、静岡哲学会編『文化と哲学』第14号に発表した。
|