今年度の研究では、奢侈を経済学的な観点から擁護する議論よりも、むしろ伝統的な奢侈批判論の根強さに焦点をあてる方法を取った。それにより、のちの思想史の流れを知ったうえで形成されている現代のわれわれの価値観を一旦離れ、十八世紀の思想状況の実態を啓蒙思想という呼称に囚われずより正確に把握できると考えたからである。このため、まず一六九九年に発表されて以来、革命までの九〇年間に二〇〇もの版を重ねたフェヌロンの『テレマックの冒険』に見られる奢侈批判を分析し、一八世紀になぜこの作品がそれほどの影響力を持ちえたのか考察することにした。 フェヌロンの奢侈批判は以下の諸要因から説明可能である。まず、私的な快楽を目的とした冨の蓄積や消費を戒めるキリスト教倫理、次に古代共和制国家を範とし冨と徳の対立を主張するいわゆるシヴィック・トラディション、最後に経済力を増した平民による奢侈的消費を身分秩序への挑戦と見る貴族主義である。こうした要素は極めて伝統的なものでその限りではフェヌロンの独自性は見られない。しかし、十八世紀を通じて彼の作品が圧倒的な人気を誇っていたという事実は、こうした伝統的な奢侈批判の議論が保っていた強い生命力を示している。現に一七六九年になってもアカデミー・フランセ-ズは「奢侈の弊害について」を懸賞論文のテーマに選んでいるし、革命の六年前でもブザンソン・アカデミーは「奢侈の致命的効果について」を懸賞論文のテーマとした。フェヌロンの思想自体はフィロゾ-フたちにより戦略的に読み替えられ、彼の熱心な神学者としての側面は意図的に抹殺されているが、奢侈批判はこうした作為の対象とはなっていない。このようにフェヌロンがどのように読まれたかを問うことは十八世紀の思想を理解するうえで重要なヒントを与えてくれた。
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