本研究は、市制町村制(1888/明治21年)により、市町村会において必要な場合設置しうるとされた臨時・常設の委員が、教育関係について置かれた例があるのではないかという仮説にたち、その実態を把握しようとしたものである。まず、その例の有無については、委員の設置が条例によらねばならず、条例は内務大臣の許可を必要としたことから、内務省関係の文書をあたることにより明らかになると考えた。そこで、国立公文書館所蔵の「公文類纂」を閲覧したところ、市町村会の条例により、土木・衛生・勧業とともに、教育の委員を置く条例が多く見出された。その職務権限は行政の一部を分掌するという形がほとんどで、いわば市町村長の補佐をすることを任務としていたといってよい。その意味では教育内容に関わる決定も規定上は行い得たと考えられる初期の学務委員(1880年頃)とは隔たりがあるが、全く任意の設置であったことを考えれば、教育令の再改正により学務委員が廃止された後も、ともかくもその職が必要とされていたことを示すものとして興味深い。さて、以上のことは単に条例が作られたことを示すのみで、その背景や実際の実施過程について知るには地域の史料による他はない。その点がもっとも重要であるが、本研究は1年間という時間の制約もあり、条例が作られた市町村を特定するにとどまっている。しかし、期限内である程度のことを探るために、史料がもっとも豊富であると考えられる山口・岩手の両県につき県庁文書の史料調査を行った。その結果、もっとも興味深かったのは、岩手県においてはすでに教育令再改正による学務委員廃止直後に、廃止は予算不足によるものでありその職が不要とされた訳ではない、というい議論が教育会の内部で行われ、実際それに替わる委員が小学校によっては設置されていることである。今後、本研究によって特定された市町村の史料調査を行いたいと考えている。
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