研究概要 |
1,『通典』に見える貞元一○年以降の記事 すでに諸先学が指摘された記事を含め、管見による限り、以下の記事を見出し得た。(1)貞元一○年五月八日巻21職官3 宰相の条。(2)貞元一一年閏八月 巻23職官5 尚書下の史部郎中員外郎の条。貞元一二年閏八月同前。(3)貞元一二年二月 巻33職官15 州郡下の総論郡佐の医博士の条。(4)貞元一三年 巻43礼3 吉礼2の郊天下の条。(5)永貞元年 巻184州郡14 古南越の条。(6)元和一五年 巻178州郡8 古冀州上の条。(7)元和年間以降 巻184州郡14 古南越の条。 2,貞元一○年以降の記事の内容と年代の確定 (6)の記事は、杜佑は元和七年に没しているため、彼の死後の記事となり、後世の別人による加筆と断定できる。また最後の(7)の記事は、『新唐書』巻43上、地理志に「元和後置」とあるので、杜佑もしくは別人の補筆である。しかし、(1)から(4)までの4つの記事は、単なる避諱や県名の場合とは異なり、一定の内容を含む記事であるから杜佑自身によって記された記事内容とするが妥当であり、すべての記事を後世の増入とは考えられない。 3.『通典』の献呈年代 A794年(貞元10)説、B801年(貞元17)説、C803年(貞元19)説の三説が存在する。A説は、前項で記したように、杜佑によるこの年以降の記事があること、また編纂に要した36年という年月にとどかないため、適切とはいえない。C説は、この前年の春以前に『通典』を献呈したという『玉海』の史料があるので、成立し得ない。結論としては、根拠となる『旧唐書』と『冊府元亀』が否定されない限り、B説が最も妥当である。
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