東方のヘレニズムについて西アジアの現地同時代史料を基に研究した結果、以下のような知見を得た。 一つは、ギリシア的な要素と現地の要素が融合していくのは、ギリシア・マケドニア人の支配時代(セレウコス朝時代)よりも、むしろその後の時代である、ということである。ハトラ・パルミュラなどアラブ・アラム系の都市における建築や彫刻などを見れば、これは明らかである。ギリシア支配時代は、ギリシア人は主として都市内の閉鎖的な集団であって、周りに対する影響もおのずと限定されたものであった。これが、他民族が支配するようになって、その閉鎖性が解け、「東方のヘレニズム」と呼ばれる諸文化を生むようになるのである。 二点目は、ギリシア系王朝の後を継いだアルシャク朝パルティアなどの王朝は、決して「民族主義」的な性格を当初から有していたのではない、ということである。このことは、メソポタミア進出直後のアルシャク朝について、明瞭に言える。最近公刊されたバビロン天文日誌によれば、ミフルダート一世のメソポタミア掌握後、ミフルダート二世に至る十数年間は、メソポタミア関係の要職に、ギリシア系の人名を持つ者が多く登場する。かつては、ヘレニズムに対するイラニズムの台頭の象徴例として考えられていたアルシャク朝は、実際には「セレウコス朝の後継者」としての性格がかなり濃厚に持っていた。こうした王朝の下で、貨幣制度の継承などギリシア的な要素と他の諸民族の文化要素が融合していくのである。
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