今回はまず網羅的に文学的な資料を検し、朝鮮通信使のだいたいの歴史を資料の上から概括した。文学的な資料とは、具体的には、日朝双方がエールの交歓の意味もこめて、お互いに漢詩を贈り合った際の作品群である。この作品については、従来国文学の世界でもほとんど注釈らしきものはなく、余り知られていない。しかし、それらは文学的にも質は高く、さらにここから、交流内容や心情表現に現われる日朝関係の種々相や、国際舞台における日本人の態度の普遍性が抽出できる。なかでも重要と思われる正徳元年の朝鮮通信使に注目してさらに深く探求していった。具体的には、漢文の訓読を作り、あわせて現代語訳も作成した。また、牽引類を用いて、中国漢詩や江戸以前の日本文学の作品から用例を博捜し、詳細な語釈を作成した。さらに、周辺資料を渉猟していき、より詳細な分析を心がけた。そのため、江戸の漢詩壇を支えてきた漢詩人たちの伝記や作品集を読み、なかでも重要なものについては購入して座右に置き適宜参照した。通信使書記官李東郭の詩については大きくふたつの傾向が分析できる。まず第一に、相手の日本人が詠んだ詩の出来栄えを賞め、その人の詩才を賞賛する手法である。日本の詩人たちにとってこの通信使との贈答は、実力を試すという実技的なレベルと、名声を得るといいう処世的なレベルの両方において、一流詩人への階梯の一つと捉えられていた。彼らはそれに向けて一度きりの絶好の機会とばかりに挑戦してくる。東郭が詩才を賞賛するといういことは、そういう日本人の期待に応えるといういことにもなるのであった。ただし、東郭の方にも詩人としての眼を光らせている部分は常にあるので、当時の日本漢詩の海外からの批評という側面もあるのである。第二に、国土への賞賛がある。富士山という日本が誇る名峰を引き合いに出して、日本人のすばらしさを称賛しようとするのが基本的なパターンである。朝鮮側の内面には優越感を抱いていた部分もあったらしく、内面の自信・誇りと外面の腰の低さや社交辞令というで、外交の普遍的な二重性がここでも確認できた。
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