本研究は、ラスキンを媒介としたイギリス・ロマン派的<Sublime>の受容の諸層を検証することで、対象の絵画化、つまりは内面化の道を歩きながら差異化されてゆく独歩・藤村・漱石における表現の諸相を解明することを目的とするものであった。 実際の具体的研究としては、島崎藤村『桜の実の熟する時』、夏目漱石『虞美人草』の両作について、外界の内面化の方途を対比しながら考究することとなった。ともにアメリカのワ-ズワス受容の第一人者、エマソンの<超絶主義>の影響を被りながら、両者の方向性は、きわめて対照的である。 藤村の場合、外界と自我の関係は、隠喩から換喩への移行に窺えるように、外界が自我にとって透明であることを志向するものである。究極的には、ことに女性存在に対して、それは不可能であるのだが、少なくとも自他が一体的でありえたような至福の<起源>は、たとえば作中、<桜の実>として、きわめて明確に措定されている。一篇の趣意は、遡及不可能な<起源>へのあくなき遡行の試みを、ヴァリエーションとして提示することであったとさえ言えるだろう。 これに対して、漱石『虞美人草』は、透明化の欲望を断念せざるをえない地点から出発した作品である。作中、それは<実世界>に絶望し<想世界>に生きんとする甲野さんの世界に託されている。甲野さんが、亡父の肖像画とさながら<想世界>の対話を展開することになる西欧風の書斎一一のちに<自家世界>とも名づけられることになる、このような時空間は、<近代>に起源を持ちながら<近代>を断念した<ポストモダン>の時空として表象されたものと考えられる。
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