研究概要 |
本研究では,近年ようやく事例が豊富になりつつある,北東北以北からサハリン(樺太)にかけて発見された防御性集落について,それが北方古代中世史にとってどのような意味を持つのかを検討するための基礎資料の収集に努めた。そしてそれらをすべてデータベース化して,分析の便をはかることができた。 現地踏査を繰り返したり,これまでの発掘調査報告書を再点検し,さらに航空写真での探査を繰り返した結果,従来中世の城館跡と誤認されていたものなどのなかにも事例が多数見つけることができ,確かなものだけでもその数は50を越えるものと思われる。しかもその地域的偏りから,これらの事例は「もう一つの日本」と目される北方世界の特有の現象であり,日常的に戦闘が繰り返されていた特殊な社会を想定することが可能であると思われる。集落を取り囲む堀の形態から,これらの集落を宗教的な結界と考える学者も現れてきたが,しかし日常的に繰り返し掘り下げて堀を維持している事例があることから,その説はとらず,あくまで社会的戦闘との関係でとらえるべきだと思われる。またその背景には,10世紀以降の中央政府による,地方政治への対処の仕方が密接に関わるものと思われる。この時代には,それまでの律令政治とは大きく異なって地方政治の自立(中央政府の不介入)が顕著になるが,そのために求心力を失った北方世界では,それまでの中央政府との対決という在り方から,北方世界内部での覇権争いという状態に変化していくようになったと分析できる。今後はこうした中央での国家史レベルでの問題との関連についてもさらに分析を深めながら,北方世界独自の歴史を明らかにしていくように努めたい。文献史料が極めて少ない当該世界の歴史の解明には,この防御性集落の分析はきわめて有効な素材となるものと思われる。
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