研究概要 |
1.民謡「金毘羅船々」が清楽曲「中山流水」のほぼ替え歌であることを突き止めた。前者は明治13(1880)年にはほぼ現在の曲・歌詞をもつ日本民謡として定着した。「中山流水」を日本に紹介した曲集は『聲光詞譜』(1872年)であるが,これが数年間で定着したのはこの曲がこの時期日本民衆の感性を捉えたことを意味している。なお「中山流水」の原曲は中国江浙地域で歌われてきた「挑担号子」と推定される。後者は作業歌として仕事を促進するための歌で,高揚した気分を「中山流水」が曲の中で継承していると判断される。 2.八重山古謡とされてきた「鷲の鳥ユンタ」は,その音階・メロディーなどから分析すると清楽の影響を強く受けていることが明らかである。本研究では,その原曲または最も強く影響を与えた曲が「鮮花調」または「茉莉花」であると推定し得ることを,根拠を挙げて論じた。両者が清楽的長調の曲である点は注目に価する。さらに問題はこのような清楽の影響が明治中期以後,八重山地方で全く語られなくなる点である。本研究ではその理由が,明治12(1879)年の「琉球処分」にあたり日本政府が宮古・八重山の清国へ割譲するという分島問題を推進したことにあるとした。その際の八重山地域の住民の動向についての記録がほとんどないが,私は本研究を通じ,当時の八重山民謡の動向を調べることにより,歴史事実を浮かび上がらせることができるという見解に達した。明治15(1882)年に大浜用能が『八重山工工四』を作成し,八重山民謡の曲調の一元化を図ったことは,まさにこの動きに対応しようとする努力を示すものであると判断される。
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