「近代日本の植民論・移民論に関する研究」という課題に取り組むに当り、明治20年代に輩出した海外植民論者の一人である稲垣満次郎に焦点を絞った。 東邦協会の中心的存在として、外交官として知られる稲垣は、明治中期に未だ小国であった日本の独立と発展という課題を、西欧の側にすりよる脱亜入欧論でもなく、アジアの側に身を置く興亜論でもなく、独自のスタンスで解こうとした。その結果彼が主張したのが、日本を「アジアにおける問屋」とする商業政策であり、アジア諸国へは日本製品を輸出する加工貿易を、西欧諸国には日本の優れた美術品を輸出するという工業政策であった。日本は太平洋に向かって開かれた港、それも世界各国を結び付けている貿易航路の中継点にあり、その地理的な位置を生かした発展が構想された。さらに外交的にはいたずらな同盟政策はとらず、フリーハンドの位置を保ちながら「東洋の覇権」を握ること、そのために欧米列強の専横を許している「万国公法体制」に挑戦することで、日本の自立を長いパースペクティヴの中で展望した。 植民論もその構想の一環であり、過剰人口対策としてとともに、日本が上記の商業的発展を遂げるための拠点を作るべく植民が必要とされている。さらに彼の植民論を際立ったものにしているのは、植民は「シビライゼーション」を進めるものでなければならないという思想である。これは欧米列強の植民地獲得を正当化する論理を逆手にとった、したたかな発想であると同時に、小国日本が植民事業に参入し、自立的な発展を遂げていくための論理であった。「シビライゼーション」には稲垣の独特の文明観・文化観が込められており、この「シビライゼーション」のモデルを、植民地に造ろうとしたのである。その植民地の発展が日本の発展にもつながると彼は考えていた。
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