第一次世界大戦後、日本の国家主義の枠組の中に社会状況が出現し、社会的動向の観測と政策的対応が国家官僚の課題として自覚されるようになった。内務官僚による協調会の設立や帝国大学教授による大原社研の発足がその代表例となっている。 大日本帝国の国家体制の枠組の内部における社会状況の定点観測の実績を「戦間期日本における社会研究センターの分析」として把握する試みは、これまで以下のような形で取り組まれてきた。(主な研究発表のみ掲げる) (1)「『森戸事件』前後-社会運動史における知的脈絡」(『社会労働研究』40-3.4) (2)「帝国体制下の社会科学研究所-大原社研における森戸辰男」(同上、41-3) (3)「協調会と大原社研-批判科学と政策科学の収斂-」(同上、42-3) (4)「新官僚・革新官僚と社会派官僚-協調会官僚の脈絡」(同上、43-1.2) (5)「協調会コーポラティズムの構造」(『大原社会問題研究所雑誌』No.458号) 今回、以上のような研究経過に、(6)東京社会科学研究所と(7)前期協調会の分析を追加することができた。(6)によって、社会研究の視点として社会哲学が設定されていた例が追加され、(7)によって、社会領域へのアプローチが労働政治論に到達していた実態が明らかにされた。 (6)の東京社会科学研究所における国家構造分析から社会分析視点への転換過程への注目は、日本の社会学における経験社会学の潮流の確定要因が同研究所社会状況定点観測の姿勢確定によって支えられていた経過を明らかにするものとなっている。(7)の前期協調会のコーポラティズム分析は、協調会の政党政治への積極的関与が協調会をして労働政治論への傾斜をもたらしたというこれまで語られることのなかった事実経過を明らかにするものとなっている。
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