研究課題/領域番号 |
09710003
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研究種目 |
奨励研究(A)
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配分区分 | 補助金 |
研究分野 |
哲学
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
高橋 克也 東大, 人文社会系研究科, 助手 (50251377)
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研究期間 (年度) |
1997 – 1998
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研究課題ステータス |
完了 (1998年度)
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配分額 *注記 |
1,500千円 (直接経費: 1,500千円)
1998年度: 700千円 (直接経費: 700千円)
1997年度: 800千円 (直接経費: 800千円)
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キーワード | 注意 / 経験的心理学 / テーテンス / 心理主義批判 / 後悔 / 自我論 / 自己観察 / 解釈学 |
研究概要 |
本年度は注意作用の認識論的な意義を主眼にする予定だったが、原稿の執筆依頼を受けるという外的な事情があったために、本来の計画より先走って倫理的問題との関連をも探求したという点を、予め断っておく。 注意と認識論という問題については、まず歴史的研究の面で若干の進展があった。18世紀の経験的心理学(テーテンスなど)からシラ-、ブレンターノ、ディルタイ、プラグマティズムへと連なる系譜を見だした点である。これらは、現象学による心理主義批判の後にもなお、心理と倫理との内的な結びつきを論ずる可能性を提供する思想であるという見込みを得た。他方、最近の認知心理学についても若干の渉猟を行ったが、まだその注意学説の哲学的射程について十分な検討を行い得てはいない。 注意と倫理的問題については、後悔と責任の感情に即して、一つの重要な問題に逢着した。すなわち、行為に際していかなる選択肢に注意が向くかに関して、我々は人間の全き能動性を想定することはできにないにも関わらず、結果的にはおのれが向けた注意の結末に関して責任を問いたくなる、という逆説的な事態である。我々の考えでは、自由と責任のこのアンバランスは、自己への注意が常に自己とのずれをはらむという認識論的な謎の中に育つものであり、ひいては自我の存在論的な身分(すなわち自我の非実体性)への論究を余儀なくさせるものなのである。ここから、解釈学の自我論が非常に有効であることも確認できた。なぜなら、解釈学とは、我々の自己認識が言語的、記号的に媒介れていて、必ずずれをはらむものだという認識を根本に据えた上で、主体性の意味を解釈しようとする態度だからである。注意における自己自身とのずれという問題が自我に関する認識論、倫理、存在論を結ぶ問題だということが本年度に得た最重要の知見であった。
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