本年度は、麦積山石窟北魏後期諸窟と西魏窟を中心に研究を行った。その結果、第133号窟が北魏時代魏後期(494〜534年)の、そして第44及び123号窟が西魏時代(535〜551年〉を代表する石窟であると見なされること。またその造営時期が、北魏後期か西魏時代であるかが常に問題となる第127号窟は、西魏時代のものとして考えられるなどの結論を得た。第133号窟は麦積山石窟中、最大の規模を誇るだけでなく、造営に二つの系統の工房が参加したことが理解される点で重要である。ひとつは第142号窟を造営した工房に代表される系統で、もうひとつは第121号窟の工房に代表される系統である。前者が洛陽遷都(494年)以前より麦積山石窟で活動していた工人の流れを汲んでいたのに対して、後者は新しく麦積山石窟に来たか、或いは外部からの影響を強く受けた工人たちであったと考えられる。ただしこれら二系統の工房は無関係ではなく互いに交流を持っていた。儀式用の大規模な石窟を開くため、麦積山石窟の工人たちが結集し造営したのが第133号窟であった。系統が異なっても工人自身ひとつの大きな集団に属するという意識があったからこそ、共同作業を行えたと考えらえる。西魏の文帝が亡き妻乙弗の墓として開いた第43号窟と隣接し、そこに見られる塑像が際立って高い水準であることから、第44号窟は首都西安の工人たちによって開かれた国家レベルの石窟であったとして間違いない。遷都以後、衣の下に隠す傾向にあった肉体を積極的に表現するようになったこと、仏像が超越的な存在から人間に近付いたことが、最大の特徴である。この西魏時代の新しい様式は、第44窟以前に既に流入しており、第127号窟などに部分的ではあるが採用されている。しかし麦積山石窟の工人たちが完全にそれを受容し独自性を持って造像を開始したのは、第123号窟においてであった。そこでは像の肉体表現のみならず全体に優しい雰囲気をたたえた、他に類の無い像が造り出された。
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