言語による表現を行なう場合にいくつかのレベルでの選択の可能性がある。たとえば、どの言語を選ぶのか、どの文体を選ぶのか、どの語彙を選ぶのか、といった選択の可能性である。ガリレオの場合、ラテン語か俗語か、俗語ならばどの俗語か(もちろん当時はトスカーナ語の優位が決定的なものになっていたのではあるが、それだからこそそうでない選択ということもありうる)、論述形式か対話形式か、といった選択が行なわれていた。そして彼の最も重要な二著作『プトレマイオスとコペルニクスの世界の二大体系についての対話』(1632年刊)と『機械学と位置運動に関する二つの科学をめぐる議論と数学的証明』(1638年刊)では俗語による(もちろんトスカーナ語)対話形式が用いられており、これが表現手段に対する彼の最終的な選択であったと思われる。 劇作家ルッヅァンテの諸作品を読んだ経験とその模倣作『チェッコ・ディ・ロンキッティの対話』の成立に関与した体験が、この選択に少なからず影響を与えたと推測される。トスカーナ語の優位がはっきりしていった16世紀にあって、ルッヅァンテは表現手段としてパドヴァの田舎言葉を選択した。また『牧歌』ではトスカーナ語を話すニンフや羊飼いたちとパドヴァ方言を話す田舎者たちが登場する。人工的なトスカーナ語で書かれたアルカディアの世界に対して、庶民の口を借りて現実を直視しようとしているのである。 ルッヅァンテが牧歌的な人工世界への民衆的な現実主義からの挑戦というかたちをとって、トスカーナ語にパドヴァの田舎言葉をぶつけたのに何がしかの影響を受けて、ガリレオは既存の哲学者たちへ挑戦するにあたって、ラテン語をやめて俗語を使用し、かつ対話形式を用いることで、民衆にも開かれた言語で、自然哲学を記述する方向にむかったのではないかと推測されるのである。以上の研究結果については拙論「ガリレオのルッヅァンテ体験」にまとめた。
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