下顎骨形態はこれまでに咀嚼環境と関連させて生体力学的な観点からしばしば解釈されてきた。しかしながら同時に、先行研究からは生体力学的要因のみでは下顎骨体の大きさやプロポーションの変異を十分に説明できないことも示されている。成体の下顎骨形態に影響を与えうる要因は様々に考えられるが、特に下顎体前方部に関しては、切歯や犬歯といった前歯を収めるための空間的要求が非生体力学的な要因の一つとして考えられてきた。そこで本研究では、先史時代人である縄文人と現代日本人の下顎骨の集団差に着目した。 先行研究から、下顎結合部の高さ(オトガイ高)は幼年期では縄文人の方が現代日本人よりも大きいものの、成人期では逆に現代日本人の方が大きいことが知られている。この逆転現象は両集団の咀嚼環境の違いから説明することは困難である。それゆえ本研究では、オトガイ高の成長パターンの集団差が、下顎骨内部で形成中の歯牙による空間的要求によって説明できるかどうか調べるため、歯胚のサイズと配置パターンの集団間比較を行った。結果として、両側犬歯の歯胚間幅は成長の過程を通して縄文人のほうが現代日本人よりもが大きいものの、歯胚サイズの成長速度に関しては現代日本人のほうが大きいことが示された。これは現代日本人の下顎骨では相対的に狭いスペースで大きい歯牙形成空間が必要となることを意味する。これは切歯萌出までに現代日本人の歯槽部の高さが縄文人よりも急増していることに対応していた。また、犬歯の萌出距離や形成される歯根長に関しても現代日本人の方が大きいことが示された。これらの結果がオトガイ高の集団差が犬歯萌出後も大きくなることに関与している可能性は考えられるものの、更なる調査が必要である。このように、本研究の結果は形成途上にある歯牙のサイズと配置パターンが歯牙萌出までの下顎骨前方部の高さに本質的に影響を及ぼすことを示唆するものであった。
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