研究概要 |
松浦史料博物館所蔵史料・平戸市教育委員会所蔵谷村家文書・オランダ国立文書館所蔵文書を調査・収集し、近世日本における地域と対外関係の関わりの具体像を、18世紀の平戸藩を中心に検討した。そして次の2点を解明した。 1.清国の海禁解除・正徳新例に伴う18世紀前半の東アジア情勢を受けて、平戸藩および地域社会において対外関係の歴史が意識化されたことを明らかにした。具体的には、(1)幕府の命により、九州諸藩が藩士・浦方を編成して唐船打ち払いを行うなか、松浦家が近世初期対外関係との関わりを幕府に主張して参勤時期の変更に成功し、長崎警備を支える大名として自らを位置づけたこと、(2)藩の対外関係史料収集を受けて、藩内の浦人・町人が、オランダや朝鮮と自らを関わらせる由緒を記録化したこと、(3)平戸藩がこれらの記録を家譜に利用し、対外関係へ貢献する藩としての自己認識を形成したことを解明した。この成果を東京歴史科学研究会大会および論文「近世対外関係をめぐる認識形成-八世紀前半の平戸藩を中心に-」にて公表した。 2,18世紀後半に、平戸藩を含む諸藩が日本の対外関係に自らを位置づける「藩」という意識を形成したことを明らかにした。具体的には、(1)平戸藩主松浦清(静山)が設立した楽歳堂の文庫記に、平戸を松前藩・薩摩藩と並ぶ「藩衛」とする記述が見られ、日本の対外関係全般のなかに自藩を位置づける認識が形成されたことを指摘し、(2)平戸藩および対馬藩・水戸藩・松前藩における「藩」という語の使用例から、18世紀後半の対外危機を受けた地域の自己認識としての、「藩」という意識を析出した。この成果を近世史サマーセミナー分科会にて公表した。 以上により、東アジア情勢に影響された地域社会の実情が、幕府の対外関係を規定していったことを解明し、従来の「四つの口」の枠組みとは異なる、地域独自の自己認識としての対外関係認臓の存在を指摘した。
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