鼻音性は、調音的には口蓋垂の閉鎖と開放によって与えられる2値的パラメータであるが、抽象的レベルでは2値的と考えることに問題が無いとしても、抹消レベルではそのような考え方は成立しない。とりわけ、分節音によって口蓋垂の位置が異なるという事実は、真に具体的なレベルでは、鼻音性のような比較的単純な素性であっても多値的(multivalued)な性質を持っていることを如実に示している。言語学的音声学は、鼻音性を2値的素性で処理するという点で音韻論と本質的な差異はなく、その一点を見ても、言語学的音声学の抽象性は明らかであると思われる。言語学的音声学がこのような抽象度の高い表示レベルであることは、とりわけ言語学では認識が未だ十分とは言えないように思われる。 ところで、言語学的音声学ではこのような表示レベルが音韻論的配慮から要請されていると考えられる。すなわち、音韻論的に鼻音性が多値的である言語は発見されておらず、のみならず、そのような言語の存在の可能性を認めていないのである。さらに、閉鎖鼻音と他の鼻音性音声は異なった扱いを受けるが、それは、閉鎖鼻音が対応する破裂音とは音韻論的に全く異なった振る舞いをすることが多いのに対して、他の鼻音性音声では、非鼻音から鼻音への音韻過程を想定する必要のある場合が多い、仮に共時的にはそうでなくとも、通時的にはそのような過程が存在したと考えられる場合が圧倒的であるという音韻論的事実に依存している。しかし、重要なことは、このような音韻論的に広く観察される鼻音性における2値性は、聴覚上の範疇知覚という、いわば人類の遺伝的特性に基づいていると考えられるということである。すなわち、言語学的音声学は、調音に基づく理論であると考えられているが、実はそれを支えているのは調音ではなく聴覚上の特性であるという逆説がここでも観察されるということになる。 なお、資料として用いた九州方言の音声調査の際に、二段形などの古態の残存について併せて調査を行った。
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